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真田幸村って武将はいないのになぁ・・・ちとマニアック編
2009年09月21日 14:19
こんにちは。JackDiveです☆
大河ドラマを見るのが小さい頃からの習慣なのですが、
今の”天地人”気になっている事があります。
ツマブキがガリガリ・・・いやいや、
それは「真田幸村」が出ていること!!
***(幸村ってだあれ?)***
歴史上、真田幸村って武将はいないんですねぇ。
正式な名は「真田(左衛門佐)信繁(のぶしげ)」です。
信繁の兄=信之(のぶゆき)の妻が徳川四天王:本田忠勝の娘。
信繁の妻が石田光成の親友:大谷吉継の娘。
ということで、兄は徳川方、弟は豊臣方に別れ、
関が原(上田合戦)は戦ったわけです。
戦後、西軍に与した信繁と父の昌幸は死刑にされそうに
なりますが、信之の必死の助命嘆願で、高野山近くに幽閉。
そこで昌幸は亡くなり、信繁もそうなる運命かと思いきや、
幽閉場所から抜け出し大阪の陣では一手の大将として大活躍!
夏の陣では家康の本陣に鬼のように突撃を繰り返し、
旗本を蹴散らし、あと一歩で家康を討ち取るとこまで
追い詰めました。
結局、力尽きて近くの神社で敵に討たれてしまいます。
しかし、その強さは語り継がれていきました。
***(兄の苦悩)***
さて、夏の陣で豊臣が滅びて江戸時代になるわけですが、
そうなると、”神君家康”を追い詰めた信繁は
言ってはならない名(タブー)となりました。
さて、徳川方大名として生き残った兄:信之は
弟:信繁の菩提を弔いたい。
しかし、そんなことを大々的に行ったら、
幕府に改易されてしまう!と悩んでました。
そんなある日、国替えが命じられました。
信州上田→松代です。
すぐ近くとはいえ、先祖代々の真田の庄から松代への
国替えはえらいこっちゃだったでしょうが、
一つ良いことがありました。
それは松代が武田信玄VS上杉謙信で名高い川中島の
近くだったことです。
***(幸村誕生)***
松代城は元は海津城といい、武田信玄の軍師、山本勘助が
縄張りをした武田方の城でした。
領内には第四次川中島合戦で戦死した武田(典厩)信繁
(→信玄の弟)の首塚がありました。
兄弟の父、昌幸は幼少の頃から信玄の小姓をしており、
戦死した信繁を尊敬していました。そこで、次男に
その名を付けたという経緯があります。
「ちょうどええ!」と信之が思ったかは分かりませんが、
武田信繁の菩提を弔うということで典厩寺を建て、
五輪の塔を2つ建てました。
もちろん、一つは武田信繁。一つは真田信繁。です。
五輪の塔は石を積んであるだけなので分かりませんが、
位牌をそのままの名で書くことはできません。
そこで幸村と仮称を付けて弔ったというわけです。
これなら、もし幕府から詮議があっても、川中島で武田信繁と
共に戦死した一族の真田幸村って申し開きできるわけです。
う~ん、兄の愛ですね☆
***(幸村の名の意味)***
幸:真田家の当主が引き継ぐ1字。
祖父は幸隆・父は昌幸・兄も関が原前までは信幸でした。
村:大好きだった姉の村松からとったと言われています。
信繁はシスコンだったと言われています。
***(何故、信繁じゃなく、幸村なの?)***
江戸期以降、講談や小説などで権力に立ち向かうヒーローモノが
流行りました。その一つとして「真田物」と呼ばれる筋があります。
内容は真田十勇士を従えて徳川に挑む真田幸村・・・。
この講談が流行りに流行ったので、こっちが信繁を呼ぶ
一般的な名前になってしまったようです。
***(大河ドラマの位置づけ)***
NHKは「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまで
ドラマであり、演出も必要である」といってるそうですから
幸村が出ていてもいいんでしょうけど、
「本当にそういう人物がいたんだー」と思われてしまうと
信繁が可哀想なので、どっかで典厩寺の事でも触れて
欲しい・・・と思う今日この頃でした!
長文失礼しました!!
追伸:今夜から出かけるのでデジログ更新さぼります☆
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