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オール・ザ・キングスメン: 観た映画、Jan. 09

2009年02月01日 14:01

オール・ザ・キングスメン  (1949)

109

初公開年月 1976/09/

監督:ロバート・ロッセン
製作:ロバート・ロッセン
原作:ロバート・ペン・ウォーレン
脚本:ロバート・ロッセン
撮影:バーネット・ガフィ
音楽:モリス・W・ストロフ

出演: ブロデリッククロフォード    ウィリー・スターク
ジョーン・ドルー    アン・スタント
ジョン・アイアランド    ジャック・バーデン
ジョン・デレク    トム・スターク
ポールフォード
アン・セイモア
マーセデス・マッケンブリッジ

 やがて赤狩り犠牲になり屈辱的な転向を強いられる事になるロッセンが自ら脚本を書き製作した、政治腐敗のからくりを暴露する問題作政界浄化を唱え知事選にうって出た小役人が、二度の落選理想主義を地にまみれさせ、俗物に堕ちて行く様を、初めは彼に共感し取材を始めた記者(J・アイアランド)の視点から描く。やがて、汚い手口で知事になった役人は、彼に反対する人達を力で封じ込める独裁者になっていた。大変な愛妻家でもあった彼だが、やがて平気で妻を裏切る様になり、献身的に務める秘書をまで毒牙に掛けようとする……。元来、政治まで娯楽になるお国柄だが、ロッセンは持前のハードな語り口で畳み掛け、息もつかせず一気に魅せる。作品賞はもちろん、主演のクロフォードの他、秘書に扮したM・マッケンブリッジオスカーに輝いた。

以上が映画データーベース記述だ。 本作のすぐ前に韓国映画テレビで見ていてそれが済みチャンネルを変えたらBBCテレビでかかっていた白黒映画がこれだった。 ガイドを見ると同名でショーン・ペン主演、2006年製作のものとなっており、白黒映画といいそのトーンといいこれは挿入された昔のエピソードで見ているとそのうちショーン・ペンがでてくるかと暫く見ていたらその気配はまったくなく、この白黒映画で若いジャーナリストが町を牛耳る地元のガラの悪いボス達に絡まれ、そこででっぷりとした主演がいじめや嘲笑にあっているところだった。 

いかにも1940年代の地方の様子が映画のなかからでも窺われてそれに興味が惹かれてソファーに座った。 町の様子、車、出演者達の服装、景色、大学内アメリカンフットボールの様子、エキストラ達の顔つきなどなど、戦後すぐがそのまま写っていた。 現在当時のものを映画に撮るとこれとは全く雰囲気が違ったものとなるのは西部劇で充分みてきたこともあり致し方がないのだろうが、だから今娯楽映画で回顧調のものを撮るとなると60年代から70年代のものになるけれど、それはいたしかたないのだろうか

本作は、いわばアメリカ草の根民主主義がどのように根付き、腐敗していくか、というようなプロセス当事者たちのマイクロコスモスを描くことで当時のアメリカ政治を批判したものとしてオスカー受賞となったものだろうがこのようなプロセスを我々は2009年の今までどれだけあちこちでみてきたことだろうか。 だから本作からほぼ60年後のリメイクの出来がどうだったのかは未見であるからこれは想像でしかないが、それはオスカーを手にするほどの起爆力がなかったのではないかと想像する。 それは映画のせいではないのだろう。 世界中の様々なレベルでの政治というものがこのようなプロセスを辿ることを大人たちはもう充分すぎるぐらい知っており、当のハリウッドがこのあとこの監督をアカのレッテルを貼って糾弾し放逐したことによってもその力の強さを測り知ることができるだろうし、それはハリウッドではなく政治なのだというかもしれないが、政治はこの世に遍く存在する。 民主主義のなかのプロパガンダマシンを司るのは今は何なのだろうか。 

本作で面白かったのは役者たちだ。 1949年当時、この映画をアメリカ人はどのように観たのだろうか。 多分共感をもって観たのだろう。 つまりここでは容姿のことについてなのだが、ああ、あるある、いるいる、どこにでもこういう容貌のものがいるとして普通に観られたのだろう。 町の小ボス達、警官に一般大衆の姿は今このような映画を撮るとこれではあまりにも下衆染み、惨めにみえるから現代風のメイクと、ボス達にはもう少し筋肉の締まった体格が要るだろう。 一方、エスタブリシュメント、すなわち、知事判事医者と美しい判事の娘、これらは当時のこうあるべき姿として表れ、それは今でも模範、参考にできる容姿であり主演に添って活躍するキャサリ-ン・ヘップバーンばりの秘書は特にそのままでいい。 

ここで一番興味深いのは主演だ。 実直で愚鈍とみえるものが徐々に力をつけ、泥水の中にいることを自覚しそれを押し切るものの時には弱みを見せる、真に力を希求する人間の姿を表現する40年代の体格である。 政治家としての彼の容姿は多分今から見れば安物のギャングの体格であるのだが、それは今配役すると多分、テレビシリーズ、「ザ ソプラノズ」で主役を演じた俳優が相当だろう。 それに今、政治ドラマを見せることはなく、むしろ「ザ ソプラノズ」を見せることでその機能は充分果たされているのではないか、しかしそれはかなりシニカルなものではあるが。

草の根の声がどのように政治に反映されその力がどのように政治家に移譲され、そしてそれが政治家(達)をどの様に変えていくか、もしくは変わらないか、その権力をつくるものの推移、様態を理解するのに役立つ映画だということに当時ハリウッドは本作にオスカーを与えたのだろうか。 そして同様に批評家、業界は「ザ ソプラノズ」にもそのように賞を授けたのだろうか。

今日の放映はBBCの意図かどうかしらないが、世界の権力を握ったオバマ大統領誕生の「ドラマ」の興奮がやっと鎮まったところで「Change」というスローガンがどのように変化するか変化しないか興味のあるところであり、その時点での放映である。 少なくとも凶弾に倒れる政治家が圧倒的に多いアメリカ政治でこの点に関してだけは変わって欲しい希望するところなのだが、この凶弾の背後にあるのが政治なのだ、ということをわれわれは政治ドラマだけでなくマフィアドラマからでも充分理解する。 事態はこの60年でこのように推移しているのだ。

空位になったオバマ上院議員の席を州知事が内部の競りで売りに掛けたことが発覚し、それが今となっては前知事とよばれるようになる、その前知事政治生命を剥奪する判決裁判所から出、それに対して自分は無実だと主張する元州知事の姿がCNNで昨日出たばかりである。 なんともやりきれない「資本主義」であることか。

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