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書籍:お金の流れで見る戦国時代

2016年09月24日 22:50

今日の紹介は、大村大次郎氏の著書です。


■お金の流れで見る戦国時代
大村 大次郎(著)


戦国時代の歴史の流れを非常にわかりやすく書かれている一冊です。

なぜ、信長比叡山を焼き討ちにしたのか、武田家は信長に敗れたか、秀吉はなぜ朝鮮出兵したのか、歴史上の疑問に残るようなことが明らかになります。
個人的には織田信長に対する誤解が多々あったことに気づかされました。
それでは特に参考になった話を紹介していきます。


室町幕府の大きな収入の柱は、「酒屋土倉役」だったと見られている。
「酒屋土倉役」というのは、酒屋と土倉に課す税のことである。
酒屋というのは造り酒屋のことであり、土倉というのは金貸しのことである。
3代将足利義満は、財政を安定させるために、1393年、「酒屋土倉を保護する」という名目で、酒屋土倉役という税を徴収することにしたのだ。
「なぜ酒屋に?」と疑問に思う人もいるだろう。
たしかに酒屋というと、現在の感覚で言えば、食品小売業の1つの分野に過ぎない。
だが、中世から近世にかけて、酒屋は商業の主役だったのだ。
太占から酒は人々の重要な嗜好品であり、商業流通がそれほど発展していない時代から、酒屋だけは産業として成り立っていた。
当時は酒の小売業などはほとんどなく、酒を造る業者がそのまま販売も行っていたので、酒屋といっても造り酒屋のことだ。
そして酒造りには大規模な設備や大量の材料が必要であるため、金持ちでなければできないものだった。
そのため、「地域で一番富裕な者が、酒屋を営む」ということが多かったのだ。
足利義満は、土倉と酒屋の利益保護することで、税を吸い上げようとしたのだ。
こちらは土一揆にもつながった。
一揆がしばしば起こるようになると、室町幕府はたびたび徳政令を出して対応した。
しかし、徳政令借金をチャラにすると、今度は土倉たちが大きなダメージを受け、必然的に土倉が支払う税金も減り、室町幕府は財政基盤も弱くなっていったのである。

北条早雲は、その後の戦国大名の手本ともいえる、画期的両国運営を行った。
複雑になっていた税制を整備し、減税をしたのである。
北条五代記」によると、北条早雲はそれまで5公5民だった年貢を4公6民に改めている。
早雲亡き後も、「領民に配した政治」は北条家の治世の特徴となった。
北条家3代目の北条氏康も、1550年に大きな減税を行っている。
当時の北条家の領民には年貢や棟別銭の他に、様々な諸税が課せられていた。
これは北条家に限らずどこの大名の領地でも同様であった。
前述したように戦国時代農地は複雑な所有関係になっていたため、税が幾重にも掛けられるような状態になっていたのだ。
その複雑な所有関係を整理し、税を簡素化することは、多くの大名たちの命題でもあった。
そうしないと、自分の財政も安定せず、領民も苦しむからである。
北条家は、いち早くこの問題に着手したのである。
北條氏康は、年貢(収穫税)、棟別銭(固定資産税)のほか、段銭とよばれる税だけを払えばいいことにした。
さらには段銭、棟別銭も減税したのである。
信長の税制も、北条家の影響を大きく受けているといえる。
税制を軽くすることによって、領民を保護し、レベルアップさせたのです。
ここに織田信長が甲斐の武田信玄に勝った根拠が見られます。

豊臣秀吉キリスト教布教自体をそれほど怖がっていたわけではない。
しかし、キリスト教布教の背後にある「南蛮貿易」に危機感を覚えていたのだ。
キリスト教布教南蛮貿易とセットになっていた。
大名南蛮貿易によって武器などど調達したいがために、こぞってキリスト教布教を許してきた。
秀吉も当初は南蛮貿易に執着し、独占しようとさえしていたことがある。
だが、南蛮貿易でもたらされる鉄砲、大砲、弾薬などの「武器」は、戦国時代が終われば無用のものである。
武器を大量に持つ者が出てくることは、秀吉からすればむしろ脅威である。
天下を統一させ、各地の戦闘をやめさせようとしていた秀吉にとって、これ以上の武器の輸入は思わしくないものだったのである。
また、南蛮貿易には、天下人になった秀吉にとって許しがたい側面をもう1つ持っていた。
それは「人身売買」である。
ポルトガルは、長崎日本人奴隷を買い込み、世界各地に輸出していたのだ。
当時ポルトガルが、アメリカから黒人奴隷を仕入れてアメリカに輸出するという商売を行っていたが、それと同様のことを日本でも行っていたのだ。
そのため、当時は、世界各地に日本人奴隷が見られたという。
またポルトガルスペインなどは、キリスト教布教を理由にして、アジアアフリカを侵攻していた。
日本に対しても、その兆候がなかったわけではない。
実際に、スペインは、日本への武力侵攻を検討したこともあった。
ただ、当時の日本は戦国時代であり、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念していただけだ。
秀吉としては、南蛮貿易による経済的なメリットは惜しかったが、他のデメリットのほうが大きかったので、キリスト教を禁教にし、宣教師たちの追放を命じたのである。

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